元来、理屈っぽい性格なので「有機農業」という単語が20年ほど気になっている。植物がアミノ酸などの有機物も吸収していることもどんどん明らかになってきているとはいえ、本質的に植物の生育に、有機物は必ずしも必要としない。ましてや、環境保全型の農業を推進し栄養価も高く美味しい作物を生産することと、畑に無機物を入れず有機物だけ投入することはまったく別の事象である。そうであるにも関わらず、今や世界中で、環境に良い農業や品質の高い農業を有機農業という言葉を使って語っていることにどうにも居心地の悪さを感じるのだ。

詳細な議論は別の機会に譲るが、さまざまな文献を読む限り、健全な微生物叢で構成された土壌で行われる農業であれば、環境負荷も小さくなるだけでなく、作物の栄養価も高く味も豊かであることは大筋としては正しそうに見える。しかしこの「健全な微生物叢」というものが科学では未だ定義されていない。なぜなら土壌の微生物のほとんどが単離・同定できず、微生物叢の動態はあまりにも複雑すぎて、従来の科学では捉えることができないからである。

土作りの匠の技術を持った名人であれば土をペロッと舐めただけで「これは良い土だ」とわかるようだが、それぞれの名人が有する「正解」が同じかどうかを知ることができない以上、この“ペロッ”を客観的な指標にするのは難しい。

この「土壌微生物叢の健全性」は科学的に定義できないという事実が、良い農業とは何かを語る時に,土壌そのものの良し悪しの議論ではなく、土壌に対して何を投与したのかの議論になってしまう最大の原因だと筆者は考えている。土壌に無機物を投入せず有機物だけを投入するくらい土作りに拘っている農家が管理する畑なら、土壌生態系が豊かになる確率が高いことが「良い農業=有機農業」という認識が広がった理由なのだろう。

「ということは,土壌の中の微生物叢の働きを定義できれば、土壌に投入した物質の議論ではなく、直接的、定量的に良い農業とは何かが世界中で議論されるようになるんじゃないの?じゃあ、俺らが農業を変える扉を開いたろうじゃないの。」という無邪気な衝動が湧いてしまうのがベンチャー企業魂だ。

幸か不幸か、筆者が経営するちとせグループではさまざまな種類の微生物の専門家も多数抱えているし、植物生態学の専門家も居る。さらにビッグデータを解析できる専門家も抱えているし、測定機器も揃っている。そもそも自分だけでなく、農業に興味があるスタッフも多い。もう、やるしかない。

筆者らのゴールは「健全な土壌とは何か」について、数理的に表現できるようになることだ。そのためにまずは、健全な土作りをしている匠の農家達の感覚を肌感として共有させてもらうことが、本質的で定量的な健全な土壌についての定義を構築するための近道であろうと筆者は考えた。そこで、筆者らは日本で最高の土作りをしている農家のすべてを訪問するという目標を立てて、文字通り北海道から沖縄まで現時点まで延べ63軒の農家を訪れ、匠の農家たちの土作りの手法や信念を伺い、土壌のサンプルを集めた。最高の農家たちが生産する野菜や果物はどれも筆者らの固定観念を塗り替えるような品質で、美味しい野菜や果物を食べることが「俺達が土壌を定義してやる」という筆者らの野心をさらに燃やす燃料となった。

最高の農家へのヒアリングを続けながら、筆者らは土壌に関するありとあらゆるデータを集めた。近い将来には特定のデータだけで土壌の健全性を語れるようになる予定だが、現時点では、メタゲノムやメタトランスクリプトーム、メタボロームデータを可能な限り集めるのはもちろんのこと、さまざまなセンサーで集められるデータも筆者らが収集するデータの対象である。

集めたデータ解析のために、まずは世で公表されている土壌の解析方法をすべて把握し、グループ内の日本バイオデータ社が集積する最新のバイオインフォマティクス手法を取り入れながら、独自の視点と技術により夾雑データの除去法を開発した。さらに観測データのヒステリシス解析(一般的に行われているデータ解析手法のうちの一つで、それを土壌の菌叢解析にどう使うかというのが筆者ら独自のアイデア)や相互作用ネットワーク解析を駆使した土壌クラスタリング手法を開発した。これらの解析手法が、筆者らの手中でどれもある程度のレベルまで達したため、特許申請と論文発表を準備している。

取得したデータ量の増加と解析手法の発展はお互いがお互いを高め会う関係にあり、この両輪が4年間の努力の末、やっと回り出したというのが正直なところである。筆者らがゴールとしているレベルで、土壌微生物叢の動態を定量的に表現するためには、この両輪をさらに加速度をつけて回さなければならない。

しかし、今のところこのプロジェクトはしがないベンチャー企業の社内研究である。プロジェクト開始時に抱いた夢を叶えるためには、社外のさまざまな「力」を結集させなければいけないタイミングが訪れたところだと感じている。

 

※初出:生物工学会誌 第96巻 第1号(2018) プロジェクトバイオ