1958年にF.クリックが分子生物学のセントラルドグマ(中心教義)を提唱して以来、それは文字通り生物学者のイコン(聖像)となりました。セントラルドグマは以下に述べる情報の流れを指します。

<<DNA(ゲノム)→ 転写(インフォルモソーム)→ 翻訳(トランスクリプトーム)→タンパク質(プロテオーム)>>

このスキームに沿う研究の流れをオミックスと呼びます(カッコ内の片仮名はオミックス名)。この先には既に代謝(メタボローム)がスタートしており、やがて、形(モルフォゾーム?)や行動(ビヘビオーム?)と続くのは想像に難くありません。

ドグマの本来の意味は宗教の教義です。そのため、セントラルドグマについても神が全ての生物の創造主であると考えるのと同じように、絶対的存在であるDNAの情報が生命現象の全てを直接支配していると思いがちです。1955年のことですが、タバコモザイクウイルスのゲノムRNAとそれがコードするコートタンパク質を試験管内で混ぜ合わせると、感染性のウイルスが誕生するという報告を知った時、一瞬、私もそう思ってしまいました。もしこれが全ての生物に当てはまるとしたら、基本的に生物学は終わった、と真面目に悩んだものです(第21回古澤満コラム)。

ここで話は18世紀に戻ります。ドイツの哲学者、I. カントは「一次元の情報が支配できるのは一次元の現象に限られる」と看破しています。カントの言葉を信じれば(私は信じていますが)、DNAの一次元の塩基配列が支配できるのは、セントラルドグマの情報の流れの内、転写と翻訳のステップに限られます。何故なら、これらのステップで主役を演ずるのはmRNAとポリペプチドであり、前者はヌクレオチドの、後者はアミノ酸の一次元的配列からなる糸状分子だからです。

擬人化して考えてみましょう。DNAの立場からしますと、責任が負えるのはmRNAの塩基配列とアミノ酸の並びまで、という事になります。タンパク質の複雑な三次元構造の形成は、ペプチドに内在する別次元の物理化学的な力によって半ば自発的に進行します。重要な点は、タンパク質の三次元構造はアミノ酸の並びだけで決まるのではなく、その場の温度、pHや塩濃度などの環境条件に強く影響されます。つまり、DNA自身は、どのような形のたんぱく質を形成するかは感知しません。と言いますか、DNAの情報は最終産物であるタンパク質の三次構造を原理的に規定できないのです。

オミックスの流れを右に延長すると、構造はより高次になり、細胞(三次元)、生物の形(三次元)や行動・思考(四次元?)に至っては推して知るべしです。DNAの手から離れてしまえば自発的に物事がどんどん進展して行きます。つまり、パンダを知りたければ、オミックス研究を直ちに止めて、動物園に行くべきなのです。

とは言っても、遺伝情報の変化は形や行動に確実に影響を与えます。しかし、特定の遺伝子に変異を入れて、出てくる形質の変化を予測することは殆どの場合不可能です。理由は、代謝(メタボローム)の段階以降のオミックス研究は、系が極端に複雑な開放系であるが故に、ほとんど手つかずの状態にあるからです。

このようにDNAの遺伝情報に端を発する個体形成のプロセスは、環境と作用しながら半ば自発的に、そして段階的に進みます。同じ楽譜を使っても、演奏者と会場の雰囲気によりまるで違ったジャズになるのと似ています。このようにして出来上がった個体は可塑性に富むばかりでなく、かなりの“揺らぎ”の幅が生じます。加えて、途切れもなく襲って来る突然変異の嵐が形質を変化させます。では何故、生物はかくも安定して存在し続けることができるのでしょう。矛盾するようですが、答えはDNAの一次元的な遺伝情報がそれを可能にしているから、です。

19世紀の生物学者、C. ダーウィンが指摘したように、環境が成体を通して遺伝情報にフィードバックをかけます。このフィードバックを総称して選択圧と呼びます。今風に表現すれば、結果として、選択圧が一足飛びにDNA情報に作用するということです。極端な場合、選択圧は個体もろとも有害変異を抹殺します。一方で、健康な子供をより沢山産む個体を増やすようにも働きます。このようにして、個体と選択圧の果てることのない凌ぎ合いが何とか折り合いの着いたところで、安定な集団(種)となります。もし選択圧が無ければ、生物はてんでばらばらになり、種と種の区別も付かなくなるでしょう。

このコラムで強調したかったのは、皆が思っているほどDNAは偉いものではなく、DNAが直接支配できる範囲には明確な限界があるという事実です。250年も前に情報理論の本質を見抜いていたカントも偉大ですし、科学における哲学の力を再認識したところです。

ゲノムにはその生物の全てを指定する情報が準備されている、と信じている方々には次の質問をさせていただきます。「この本には、ある生物のゲノムの全塩基配列が書かれています。遺伝子が全て特定され、それらの発現、相互作用が完璧に解明されていると仮定した時、AIを使っても良いのでその生物の形を書いてみてください。」

2019年1月30日
古澤 満

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