近代医療が発達して100年、新型コロナウイルス(SARS-Cov-2)は地上を席巻した初めてのウイルスです。スペイン風邪、インフレンザ、サーズ、マーズ、今回の新型コロナ感染症を含めて、コロナ型ウイルスのゲノムは1本鎖RNAです。このゲノムの形状とパンデミックは何か関係があるのでしょうか?
1本鎖RNAをゲノムに持つウイルスがパンデミックを起こす原因として、一般的に2つの理由が挙げられています。
1)2本鎖DNAと違って物理的に不安定だから変異を起こし易く、高速で適応進化する。
2)複製速度が速いので短期間に多くの子孫を残すことができる。
今回のパンデミックに関しては、発症以前の無症状な期間でも感染能力を持つことや、人の社会活動との関連が議論されています。しかし、どれも納得できる説明ではありません。
何故、複製の効率が良く、変異し易かったらパンデミックになるのでしょう?何か別の理由があるはずです。
100年前にパンデミックを起こしたスペイン風邪のときと明らかに状況が違っている点は、武漢で感染が始まって暫くして、ウイルスゲノムの全塩基配列が解読されたことと、PCR技術の存在です。しかし現在に至るまで、これらの分子生物学的成果はパンデミックの制御には何の役にも立っていないことは明らかです。
この小文では、RNAとDNAの構造の違いと、複製の原理に立ち戻ってパンデミックの原因に迫ってみたいと思います。
世の中には“元本保証“を謳った怪しげな投資商品が存在しますが、ご承知のように、本当に元本が保証される投資案件などあろうはずがありません。しかしながら、自然界ではこの常識は通じません。1本鎖RNAからなるゲノム情報は、元本保証付き多様性拡大(投資の世界では金儲けに相当します)という不滅の戦略を見事に使いこなしているのです。
生物のゲノムは例外なく2本鎖DNAであり、その複製様式は“分裂方式”と表現できます。つまり、2本鎖の梯子が真ん中から割けて、各々の1本鎖を鋳型として新しい子DNAが2匹生まれます。原理的には細胞分裂と同じです。
一方、1本鎖RNAの複製は“鋳造方式”と表現できます。ウイルス粒子に存在するプラス鎖RNAを鋳型にして塩基対の法則(A:U, G:C)に従って、鋳物であるマイナス鎖を作ります。次にこの鋳物を新しい鋳型として用いてプラス鎖を作ることで1回の複製工程が完了です。このサイクルの繰り返しでRNA分子の数は増えていきます。更に加えて、1本のプラス鎖から同時に複数のマイナス鎖を作ることもできます。
このように、DNAは分裂してたった2匹の子供しか作れないのに、RNAでは単位時間により多くの子供を作ることができるメリットがあります。これはパンデミックの一因となり得ます。世間での議論はこの時点でストップしていますが、問題の本質はもう少し深いところにあるようです。
新型コロナウイルスのレプリカーゼ(RNAを鋳型とするRNA合成酵素)は例外的に校正作用を持っていますが、活性は極めて弱いものです。ウイルスの変異率はヒト細胞のそれの百万倍も高いので、1回の複写過程で、ゲノム当たりおそらく平均1個に近い塩基置換突然変異(点突然変異)が入ると予測できます。最も重要な点は、変異は専ら新生鎖に入り、鋳型鎖は変異が入らずにそのまま残ると考えられていることです。工場で鋳造するとき、鋳型は変わらないが鋳物はその都度少しずつ変形するのと同じです。
これまでの文脈に沿って感染細胞で何が起こっているかを想像してみましょう。
1匹のSARS-Cov-2がヒト細胞に感染したとして、ゲノム複製の結果、無数のウイルスRNA鎖が存在することになります。これらのRNAは、+/-鎖に関わらず鋳型鎖として働くことができます。複製の度に生まれるほとんどの新生鎖には変異が入りますが、鋳型鎖の遺伝情報はそのまま残ります。つまり、鋳型として働いた鎖の遺伝情報は確実に担保されます(元本保証)。結局、感染細胞内には感染時の大元の変異ゼロのRNAを含めて、プラスRNAの見事な変異のレパートリーが準備されます。このプラスRNAを1個づつ持ったウイルス粒子が一斉に細胞を殺して飛び出し、次のターゲットの攻撃に向かいます。この戦略はあまりにも優れているので、環境の変化に強く、種を越えての感染をも可能にしています。
一見逆説的に聞こえますが、パンデミックに最も必要な条件は、遺伝情報の元本が各複製のステップごとに鋳型として確実に担保されていることであって、闇雲に変異することではありません。何故なら全てのゲノムRNAがランダムに変異してしまったら、変異率が高いので元も子も無くなり、自滅する危険性があるからです。疎ましいのは、この元本保証システムだと、変異率が少々上がってもウイルスの自滅が避けられる点です。
経済界には決して存在し得ない“元本保証付き”の投資戦略を、新型コロナウイルスが使っていたことをご理解いただけたかと思います。いずれにしても、一筋縄ではいかない厄介な感染症であることには間違いありません。
【追記】
生物進化の歴史の中で、最初に1本鎖RNAワールドが現れ、のちに2本鎖DNAワールドが出現し、現在に至ったと主張する説があります。1本鎖RNAワールドでは元本保証の多様性拡大が実現されていたはずですから、出遅れたDNAがRNAに勝つためには、元本保証の戦略を採らざるを得なかったでしょう。これが、不均衡進化理論の発想の原点です(古澤満著『不均衡進化論』筑摩選書をご参考下さい)。
古澤 満