友人の最相葉月さん(ノンフィクションライター)が東京工業大学の非常勤講師をされていた時、彼女から大学院生向けの講演依頼を受けました。『生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか』を主題に掲げたオムニバス形式の講義でした。

私に与えられた演題は、何と『禁断の不均衡進化説』でした。“禁断”の二文字には少なからず戸惑いました。日本に生まれ育った私達は、生物は進化するのは当たり前のことと信じています。しかしアメリカでは、今でも生物は神が創造したと考えている人達がいて、一部の私立学校では進化の授業が禁じられているそうです。また、進化を信じない人が私の周りにも少なからず見受けられるのも事実です。

そもそも、不均衡進化説の最大の特徴は簡単な遺伝子操作で進化の加速が可能なことです。生命に関する古い考えが払拭されていない現状を考えますと、(株)ネオ・モルガン研究所創設当時は、進化を標榜する企業の設立の是非についていささかの危惧を感じていました。実際、1992年に本説*1を発表した当初は、社会運動家や思想関係者からの批判を含めたレスポンスがありました。まして人為的に進化を加速するなんて、神をも畏れぬ輩だと言われはしないかと、内心びくびくしていたのも事実です。

そこから二十数年、まさか自らの講義のタイトルに、“禁断”という言葉が冠せられるなんて。「自分の演題に“禁断”という言葉を付けるほど私は愚かではありません。最相先生からいただいた題名なので仕方ないのです」とまずはエックスキューズから講義を始めました。講義後に、聴講生から「生きている生物を使った進化の加速実験って生命倫理に反しないのですか?」という質問を受けました。とうとう来たか!私は身構えました。私の答えになっていない答えについては、上記の講義の主題と同名の単行本*2に紹介されています。それにしても、“禁断”とは、人をナーバスにさせるに十分な惹句(キャッチコピー)ですね。

さて、話は変わりますが、19世紀前半に活躍したアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)は、理論物学者であるシュㇾディンガーやアインシュタインに影響を与えた偉大なドイツの哲学者です。出典は定かでありませんが、彼の言葉に、「始めは無視され、やがて足を引っ張られ、最後には当たり前だと言われる」というのがあります。この言葉に因んで不均衡進化説の経緯を振り返りますと、彼の述懐が当たっているのに驚かされます。発表当時は一部のマスコミや社会運動家を除いて、殆どの科学者仲間から無視されました。やがて、進化遺伝学的熱力学の基本原理に悖る、つまり突然変異を熱による摂動と見做すと、本説が許容する高変異率の下では生命の存在はあり得ないというような理由で、4年間に渡り有名科学雑誌に拒絶され続けました。つまり足を引っ張られた訳です。ところが、4半世紀が経過した現在では、不均衡変異なんて当たり前のことだと言う声が聞かれ始めました。

明確な批判や肯定もないうちにどうしてこうなってしまったのでしょう?
恐らく、この理論があまりにも単純であることがその主な理由だと思います(理論は単純なほど応用範囲が広いので、より優れた理論だと思っていますが)。この学問分野では、特に証拠もないのに突然変異は平均して起こることを前提として物事が進められてきました。その結果、進化のブレーキとなる“変異の閾値”という概念を持ち出さざるを得なくなったのです。不連続鎖に偏った変異を仮定することでこの呪縛を簡単に解くことができました。別の表現を借りれば、「バランスの崩壊が創造を導く」となり、パラドキシカルな含意をもつ哲学的な原理であることが分かります。この小文が、科学における哲学の欠如、と指摘されている現状に対する小さな警鐘となれば幸いです。

2018年7月6日
古澤 満

 

*1 Furusawa, M and Doi, H. (1992). Promotion of evolution: disparity in the frequency of strand-specific misreading between the lagging and leading DNA strands enhances disproportionate accumulation of mutations. J. theor. Biol., 157, 127-133.
*2 最相葉月「東工大講義 生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか」ポプラ社(2015)

●第1回〜35回まではこちらから、第36回~はこちらからお読みいただけます。
●本コラムで述べられている「不均衡進化説」については、こちらも併せてお読みください。