
第4回古澤満コラムでご紹介しましたように(文献1)、1998年8月3日から5日間スペインで催された『エル・エスコリアル サマーコース』に講師として出席したときの事でした。複数の講師の中の一人がK. マリス博士(1944~2019)でした。博士はPCR=ポリメラーゼ連鎖反応法の発明で、1993年度のノーベル化学賞を受賞されています。そのマリス博士から、図らずも筆者は“空手形ノーベル賞”を受賞することになりました。当時博士は54歳、筆者は66歳でした。その経緯を以下に述べます。一つの珍しいエピソードとして気軽にお読み頂けたら幸いです。
マリス博士が発明したPCR法は、後に遺伝子クローニングに用いられるようになった、DNAの特定領域を増幅するという、非常にスマートで優れた技術です。上記のサマーコースにおける彼の演題は、『賢さという人間自身を魅力的に見せるために、強制不能で無害な人間の傲慢さ(The incorrigible and harmless arrogance of human beings fascinated by their own cleverness)』でした。調べましたところ、この演題はF. スコット・フィッツジェラルドの小説から引用したもののようです。因みに、私たちのコースの主題は『進化と自意識;利己的遺伝子からヒトの脳まで』でした(文献2)。演題からも分かりますように、博士は思慮深くしっかりした哲学を持った人物でもあります。一方、ユニークな行動の持ち主としても知られ、子供のようなところがある愛すべきお人柄でした。尚、サーファーとしても有名です。
筆者が『進化を加速することが出来るか?』と題して講演を始めてから5分ほど経ったころ、博士は講演場にやや遅れて入ってこられました。筆者はそれまで面識はありませんでしたが、その雰囲気から直ぐにマリス博士だと気づきました。階段教室の前から4~5列目の筆者の真正面の席で、真剣に講演を聴いておられました。講演が山場に差し掛かり、生物の進化を促進する方法に話が移った時、博士が突然立ち上がり「古澤博士、そこのところもう一度言ってくれませんか?」と大きな声で発言されました。そこで、進化を加速するには不連続鎖の変異率を上げること、そのための一方法として、不連続鎖合成に関わるDNA合成酵素のミスマッチ修復活性を遺伝子操作で除去すれば目的は達せられる、ということを簡潔に説明しました。その時です、間髪を入れず博士は再び立ち上がって大声で言ったのです。「古澤博士、ノーベル賞をあげるよ!」。
講演中の事でもあり、また内容があまりにも唐突としていましたので、筆者は彼の顔を見詰めたまま、おそらく5~6秒は沈黙を守っていたと思います。会場も同じで、シーンと静まり返りました。筆者は頭が空回りした後、壇上から「マリス博士ありがとうございます!ください!」と言って、咄嗟に両手を差し出しました。会場は拍手と歓声が沸き起こりました。第4回古澤満コラムではこのやり取りを、内容は伏せて単に“掛け合い漫才”として紹介しています。
その夜、博士と夜が明けるまでホテルの食堂でワインを飲んだことは第4回コラムでも書いた通りです。奥様が心配なさって、様子を見るために食堂までやって来られました。アルコールの勢いもあって「貴方のご主人は賢いですね?」とお尋ねしたら、「そうですよ、とっても賢いですよ!」とおっしゃっていました。似たもの夫婦だなと思いました(失礼)。
翌朝、会場に行って驚きました。若い受講者の皆さんが、会場の入り口の前に集まって私を取り囲んだのです。質問をする訳でもなく、2~3メートル程度の距離を置いてただ黙っているだけでした。筆者が会場に入ると後から彼らも入室しましたが、どういう意味だったのでしょうか? この事があってから、参加された皆さんの筆者に対する接し方が全く変わりました。
ここに紹介しましたエピソードは、私にとって心地よいものでありましたので、今でも時々懐かしく想い出しています。ご興味のある方は是非、第4回古澤満コラムをご覧ください。
スペイン小旅行から帰国して間もなく、博士の来日企画があったようで、関係者の方から博士の人となりについてご質問を受けました。博士は真に優れた研究者であるばかりではなく、破天荒なところもある愛すべき人柄で、TPOをよく解した紳士であることをお伝えしておきました。おそらく企画された方は、会の運営を危ぶまれたのでしょう。
筆者の独り言。『イグノーベル賞も面白いが、“空手形ノーベル賞”も捨てたものでは無いな。』
2026年4月9日
古澤 満
文献:
