居間に置いてある真空管ラジオの音量を思いっきり絞って、母子3人が額を寄せ合ってオペラ歌手・藤原義江の『出船の歌』を聴いたのが、私が本格的な音楽に接した最初の機会でした。第2次世界大戦が始まる2年前、小学1年生の時だったと記憶しています。テナーの歌声が外に洩れるのを母が憚ったのは、藤原義江の母親が敵性国である英国人だったからです。国策に反する行為をすると、いつ何時憲兵や警察に捕まってもおかしくない時世でした。

東京から京都に転宅した小学3年生の冬に大戦が始まりました。音楽の最初の授業で、女性の先生が授業の目的を「敵機のエンジン音を聞き分けるため」と説明され、オルガンが奏でる和音を言い当てるのが試験でした。それもドレミではなく、ハ二ホへトイロハです。メートル法から尺貫法への切り替え、敵性語の使用制限、巷にはJOAK(現在のNHK東京)主導の国民歌謡と軍歌が流れ、家庭で西洋音楽の鑑賞どころではなかったのです。戦禍を逃れて大阪の泉州に疎開した6年生の時の音楽のテスト曲は、『満州開拓少年義勇団の歌』でした。

旧制中学1年の夏に敗戦。GHQの3S政策(セックス、スクリーン、スポーツ)に沿って堰を切ったように天然色のハリウッド映画が流れ込んできました。瞬く間に西部劇の虜になり、ゲイリー・クーパーの大フアンになりました。ミュージカル映画で初めて米国のポップスを知り、『ベニイ・グッドマン物語』と『グレン・ミラー物語』でスイング・ジャズに接しました。特に後者では、欧州駐留米軍慰問の場面で『アメリカン・パトロール』に代表される軍隊行進曲が流れますが、その踊りたくなるようなリズムには驚かされました。拍子がダウン・ビートのせいだと説明されていますが、私には音楽理論は理解できません。一方、日本の軍歌は頭から抑え込まれる感覚があります。いずれにしましても、この調子ではとても戦争には勝てないな、というのがその時の印象でした。

1961年の冬、志賀高原スキー場のゲレンデのレストランで、偶然テレビから流れるアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズの演奏を聴きました。モダン・ジャズに最初に接した瞬間です。幸い、大阪市立大学(現、大阪公立大学)の研究室の大学院生でジャズバンドの部長をしていた足立英斎君(後に理学博士。スキー部の部長も兼ね、私のスキーの先生。他界。)が同行していましたので、いろいろと質問をすることができました。それからというもの、来阪する著名なジャズプレーヤーの演奏を足立君と一緒に次々と聴くことになります。ローランド・カーク(サックス)、セロニアス・モンク(ピアノ)、キャノンボール/ナット・アダレイ兄弟(サックス)、ソニー・ロリンズ(サックス)、ハービー・マン(フルート)、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)等々、数えれば限がありません。中でも、モンクのピアノの独特の音の飛びと間、稚拙とも思える単音の連続、時々入る不協和音、興が載った時のユニークな踊りは、天才と呼ぶに相応しいでしょう。楽屋で娘がもらった、ネリー・モンク夫人(音楽家ではない)のサインも持っています。すっかりハードバップ・ジャズのフアンになってしまい、今に至っています。昨今は、珍らしくハード・バップに特化した西宮のさくらFM(78.7MHz)の深夜放送を楽しんでいます。

ハード・バップは1950年代に米国東海岸に始まり1960代の終わりまで世界を風靡したモダン・ジャズのスタイルで、わが国でモダン・ジャズと言えば一般的にこれを指します。演奏の最初と最後にテーマ曲が入り中間をソロ演奏が占めます。ソロは演奏者の自由に任され、1つのソロは ”一人会話”の繰り返しから成り(と、私は捉えています)、次に来るフレーズを予測しながら聞くのが好きです。予測が当たった時の快感は堪えられません。しかし、ハード・バップの時代はそう長くは続きませんでした。ビートルズの出現以来、イージー・リスニングと呼ばれるフュージョンやロック系(8拍子)の全盛期がやって来て今に至っていますが、私にはどうも合いません。

ある日、自宅でぼんやりとテレビの音声を聴いている時、心に響くピアノの演奏が聞こえてきました。画面に目を移すと、初めて聴く上原ひろみ(ピアノ)トリオの演奏でした。半世紀待って、ついに来るものが来たという印象でした。確実にハード・バップの伝統を受け継いでいますが、私には新鮮で異質な音楽でした。東京オリンピック2020の開会式で、サプライズ登場した市川團十郎白猿(当時、市川海老蔵氏)の『暫(しばらく)』と共演した女流ジャズ・ピアニスト、と言えば思い出す方も多いでしょう。何よりも彼女が日本人であることに誇りを感じます。きっとジャズ界の新しい流れのトップランナーになるでしょう。

さて、この辺で取って置きのお話しをしましょう。
1977年の夏だと記憶していますが、パスツール研究所の友人ハービー・アイゼン博士(ちとせ研究所の前身であるネオ・モルガン研究所の名付け親)を訪問し、パリに短期間滞在した時の事です。アイゼンご夫妻の友人である英国人の女流ピアニスト(失礼ですがお名前を失念しました)とヨーヨー・マ氏が2日間のデュオ演奏会の為にパリに来られました。ヨーヨー・マ氏と言えば、当時はまだ米国の大学院生でしたが、既に世界にその名を馳せていたクラシックの名チェロ演奏家です。ところが、会場のダブル・ブッキングで演奏会が中止になったそうです(事の真偽は今もって不明ですが)。我が友人たちの結論は秀逸でした。「違約金で、みんなで飲もう!」だったのです。私もお誘いを受けました。お断りする理由などあろうはずがなく、2つ返事でOKしました。ところで、この不労所得額は一体いかほどだったのでしょう?

早速その夜、5人はパリの中心街へと繰り出しました。観光客は行かないような、サンジェリジェ本通りから少し入ったところにある、パッリ子が好みそうな瀟洒なレストランが予約されていました。内装は黒が基調で客席数は30ほど。壁と柱はロートレックを彷彿させる絵が描かれた鏡で覆われていました。やがて出てきた前菜は、大きなガラス製のお皿に高い氷の山が作られ、その表面全体に幾種類もの海産の生(なま)の開いた二枚貝が埋め込まれていました。ワインとの組み合わせが美味しかったこと、至福の時でした。
ヨーヨー・マ氏が、現在はクラシックに限定しているが、表現の自由度を広げるために、将来はポップスも取り込みたい旨を話しておられました。確かに、今では幅広く領域を広げています。とても物静かな紳士淑女でした。会話に深く入っていけなかったことを残念に思っています。次の日も、5人は意気揚々とパリの夜の探索に出かけたのは言うまでもありません。読者の皆様には、音楽とは無関係なエピソードで申し訳ありませんでした。

最後はプライベートなお話です。数年前、姪がジャズ・ギターリスト山口武氏と結婚しました。コロナ禍以前は、モダン・ジャズのレジェンド、かの有名なロン・カーター氏(ベース、85歳)とザ・トリオというコンボを組んで毎年夏に日本で演奏ツアーをしていましたので、身近に本場のジャズを聴くことが出来ました。カーター氏やドラムのルイス・ナッシュ氏と話す機会もありました。近い親戚に有名なジャズプレーヤーが居るなんて、予想もしない展開となっています。

私は楽器を扱うことが出来ませんし、歌も苦手です。しかし、音楽、特にジャズ鑑賞はスポーツの観戦や睡眠と同じように生活になくてはならない存在になっています。興が乗れば、ボールペンをスティックがわりに机を叩いています。

 

2023年1月12日
古澤 満

 

●第1回〜35回まではこちらから、第36回~はこちらからお読みいただけます。
●本コラムで述べられている「不均衡進化説」については、こちらも併せてお読みください。