筆者が書いた最初の論文の表題は『Sex Differentiation of the Larval Newt Composed of Heterosexual Halves.(体の左右が雌雄から出来ている幼体イモリの性分化)』で、29歳の時です(文献1)。この論文は大阪市立大学(現、大阪公立大学)・理学部・生物学科紀要に掲載されています。実はこの論文を紀要に投稿した事が、図らずも筆者が大学を辞することになる原因になったのです。筆者は当時、生物学科・発生研究室の助手(助教)を務めていました。当時、理学部の顔であった高名な他学科のA教授と同席していた時の事でした。会議が終わって2人だけになった時を見計らって、寡黙な教授にはめずらしく真剣な表情で話しかけて来られました。「古澤さん。生物学科では紀要に掲載された主論文で博士になれるのですか?」。因みに、生物学科の紀要は査読制度がなく、投稿論文は殆どフリーパスの状態でした。あまりにも唐突だったので、何とお答えしたかよく覚えていませんが、非常に惨めな気持ちになった事だけは確かです。≪きっと昇格人事の基準も同様だろう。このままだと生物学科はもとより、理学部全体に大きな禍根を残すことになる。古澤さん、何とかならないか?≫と言う、言外の意味が直ぐに読み取れました。A教授は、筆者のこの論文が紀要に掲載されているのはご存じでした。A教授と筆者は、理学部のビルの中で偶然お会いした時など世間話をするような間柄でした。いつも私の方から御声掛けをしていました。今では、あの発言は筆者に対する親心でもあったと思っています。

筆者は、教室会議に紀要廃刊に関する議案を提出することを決意しました。研究室の同僚で一つ年上の小谷穣一博士(後、大阪女子大教授)を始め、多くの若手教職員の賛同を得て、紀要廃刊の議案は期待していた本質的な議論も全く無いままに、過半数の票を得て承認されました。その後も何度かA教授とお会いする機会がありましたが、この話は一切出ませんでした。

当時、生物学科の研究者は、所属している学科の紀要か所属学会が刊行する英語の学術誌、或いは英語の要約がついている日本語の学術誌に投稿するのが習わしとなっていました。その事に筆者は何も疑問を感じていませんでした。当時は未だ敗戦の影響が色濃く残っていて、全国的に見ても我が国の発生学の研究レベルは、僅かな研究者を除いて国際化には程遠く、学位取得者は“ポツダム博士”と揶揄されていた時代でした。紀要廃刊の反発は想像以上のものがありました。提案者である筆者も共同提案者も紀要に論文を掲載していましたので、この提案に表立って反対する事は難しかったと思います。この事があって以来、別の動機とも重なって(文献2)、国際的な雑誌に投稿するよう心がけました。従って、筆者が紀要に投稿した論文はこれが最初で最後です。この教室会議以降、昇格人事を始め学科内で有形、無形の圧力があり、早々に大学を去る事になるだろうと覚悟を決めていました。

大学を去るとき、栄転される化学科の若い先生と合同で講演会と歓送会が企画されました。予期せぬ事に、文化系を含む多くの他学科や他学部の先生方も多数参加頂いたのには心底感激しました。夜の宴会には筆者の家族も招待され、貸し切っていた馴染の寿司屋さんが人で一杯になったのを覚えています。「お別れの会」に似合わず、笑声の絶えない威勢の良い宴会でした。企業で研究を続けられるのか?と言う話題も何度か出ました。大学を去った時は、諸般の事情で既に50歳になっていました。余談ですが、大学を辞した後も、発生研究室の小宮透博士の御厚意で、2~3度教養学部の代替講義(『不均衡進化理論』)の機会を頂きました。また、化学科の木下勇博士の推薦で、『学長を囲む勉強会』に幾度か同席させて頂きました。さらに、生物学科の教授からの推薦を受けて、一時、客員教授の席を汚したこともありますし、理学部長から研究者の評価を求められた事も一度となくありました。2010年に筑摩選書から拙著『不均衡進化論』(文献3)を出版した際、理学部教員有志主催で、大学のキャンパスに出来た新館内の講堂で、盛大な記念講演会と本のサイン会を催して下さった事を付け加えておきます。この様に、辞してからの大学との関係は極めて良好でした。少しは恩返しが出来たかなと安堵しています。

ところで、自分で言うのも変ですが、この論文の自己評価は容易ではありません。先ず、前出の小谷博士からイモリ胚を手術する技術の特訓を受けました。胚のオペレーションには、赤ちゃんの毛髪で作ったループを細いガラス管の先にくっ付けたもの、まつ毛や、ガラス棒を引き延ばして作ったマイクロ・メス等、自家製の道具を使います。双眼実体顕微鏡下での作業で、正に職人の世界です。博士は、イモリの生殖細胞の起源が体細胞由来である事の証拠を示した世界最初の研究者です。(今日では、iPS細胞の例でも分かりますように、成人の体細胞からでも生殖細胞が作れることが知られています。)何にせよ、原腸陥入運動が進行中の直径1-2mmの胚を2つ揃え、それぞれを正中線に沿って左右に “一刀両断”に切り分けて、左右の半球を交換する実験です。この実験の一番の魅力は両断するところにあります。(因みに、子供の頃よく考えたものです。「若し一刀両断にされたら、どちらの半身が痛いと感じるのだろう?」)小谷博士は、『結果よりも、先ず実験が成功すれば皆驚くだろうな。』との感想でした。
実験形態学会での発表で唯一受けた質問は、「左右の半球の細胞同士は混ざらないのか?」と言う、京大の岡田節人博士からのものでした。基本的な良い質問ですが、それを知るには、細胞の雌雄を同定する必要があります。

Furusawa, M., J. Biol. Osaka City University. 12, 1-8 (1961)(文献1)より。

そもそも、筆者が何故この実験を思いついたかと言いますと、当時所属していた発生研究室の朝山新一教授の御専門が“脊椎動物の性分化”であったためです。第2の理由は、クワガタムシで稀に体の半分が雌で半分が雄のギナンドロモルフと呼ばれる雌雄モザイックの個体がいます。一方の角が小さく、他方はごく大きいので非常に目立ちます。このようなモザイック個体を脊椎動物で作って見たかったのです。イモリの弱点は、元の2つの胚の性が判別できないことです。染色体を調べれば良いのですが、イモリのXとY染色体を可視的に区別することは現在でも不可能です。勿論、当時は遺伝子を可視化する技術は未だありませんでした。左右交換胚を育てて、生殖巣が分化した頃を見計らって生殖巣を取り出し、厚さ数μの組織片を作り顕微鏡下で観察します。私も若かったのでしょう。周囲からの忠告や材料のハンディキャップがあることにはお構いなしに実験を始めました。

162回の左右交換実験で、32匹(含、5組のペアー)が生き残りました。内訳は、♂5、♀4、♀(?)23個体でした。筆者の予測では、雄雌の組合わせ個体はギナンドロモルフにならずに、雄か雌かどちらかになると考えていました。従って、実験個体の性比は1:1から大きく外れると予測していました。♀(?)を♀と見做すと予想が合っているように見えます。少なくとも、幼体期の美しい外皮の模様は一様で、左右が違うものは1匹も見つかりませんでした。手術は見事に成功しました。1回の実験で2匹の個体が出来ますが、そのペアーがうまく成長することが条件です。ペアーで左右生殖巣の性が違っているのは1組だけで、残りの4ペアーは♀・♀コンビでした。組織観察の結果は、ペアーとして残らなかった個体も併せて83%が卵巣でした。左右の生殖巣が精巣と卵巣のギナンドロモルフ的な個体は1つの怪しい例を除いて、見つかりませんでした。しかし残念ですが、ペアーの数の不足が原因で決定的なことは言えませんでした。一番の危惧は、もっと上手い人が手術をやっていたら、もっと多くのペアーが得られたのではないかと言う点です。せめて100ペアーあったらなあ。もう一度トライしたい実験です。尚、昆虫やエビ等でギナンドロモルフが生じる理由は、性染色体の異常配分と説明されています。

当時、六甲山の裏側、有馬温泉の近くに実家があり、朝5時頃起床して、天候を見計らって近所の小川で卵を採集し、電車・バスを3回乗り継ぎ、義経の“鵯越の逆落とし”で有名な六甲山の西麓を通って、普段は歩く道をタクシーに乗り、合計2時間半かけて研究室に到着。直ちに実験開始というハードなスケジュールを計1ヶ月ほどこなしました。通勤に利用していた地下鉄御堂筋線は、大阪では通称“北”と“南”と呼ばれている2つの有名な繁華街の真下を通っています。日ごろは途中下車をして道草することが多いのですが、実験期間中はそれも禁止。さて、イモリの胚が変態し、水から出てからの餌付けがまた大変でした。ピンセットでイトミミズを1匹ずつ掴んでは口元までもって行って、揺らしてあげないと食べないのです。相手が慣れるまで、忍耐が要る仕事でした。

評価は全く予期せぬところからも来ました。それは、カナダのトロント大学の増井禎夫博士からでした。博士はカエルの卵成熟促進因子MPFを発見し、後に、DNA複製に関わる多くの遺伝子発見の礎を築いたことが評価され、ノーベル賞への近道と言われる「ラスカー賞」受賞の栄に輝かれました。我々の中のホープでした。また、小谷博士と筆者は、増井博士の研究室があった六甲南山麓にある甲南大学を訪ねて、よく議論したものでした。3人は殆ど同い年でしたから、話は弾みました。博士から研究室セミナーの招待を受け、トロント大学の研究室を訪問した時の事です。肝心のセミナーの演題名は失念しましたが、上記のイモリの卵の実験とは全く別のものでした。しかし、演者紹介での博士の冒頭の言葉は、上記実験の話から始まりました。矢張り、イモリ胚の手術に関して豊富な経験をお持ちの博士は、この実験の発想と手術の成功がよほど印象深かったのでしょう。セミナー後もこの話題はしばらく続きました。この話を題目にすればよかった、と反省したのを今でも覚えています。小谷博士の予想が見事に当たった訳です。

この後、筆者は大手製薬会社の新設研究室に移り、進化の研究に方向転換することになります。この論文は筆者のデビュー作でもあり、研究者としての運命を左右した問題の論文ですから、今でも愛着を持っています。この論文を想い出す度に、何故かロマンを感じています。今回のコラムは少し長くなりましたが、筆者のノスタルジーに免じてお許し下さい。

筆者の独り言。『若し、大学紀要にこの論文を載せていなくて、A教授のあの時の質問がなかったら、大学を辞めていなかった訳だ。そしたら、進化理論の発想が浮かんだERATOの「古澤発生遺伝子プロジェクト」も存在しないから、絶対に不均衡進化理論に行き着けなかっただろう。』

2026年6月9日
古澤 満

文献:

  1. Furusawa, M. (1961). Sex Differentiation of the Larval Newt Composed of Heterosexual Halves. Journal of Biology, Osaka City University, 12, 1–8.
  2. 大学での研究を振り返って[第14回 古澤満コラム]
  3. 古澤満「不均衡進化論」筑摩選書(2010)

●第1回〜35回まではこちらから、第36回~はこちらからお読みいただけます。