
なぜ私は平塚の田んぼで蛙を踏んづける羽目になったのだろうか。
4月のある雨の日のことだ。私は平塚市北金目にあるガヤマファームの田んぼに立っていた。足元を見ればたくさんの蛙が(死ぬほど苦手な蛙が)私がこれから堆肥を撒こうとしている田んぼを飛び跳ねている。雨に打たれながら重たい肥料バケツを抱えて、足元でぴょんぴょん跳ねる蛙を視界に入れないように(だから絶対に何匹か踏んでいる)黙々と作業を進める。
話は数週間前に遡る。
ちとせの株主でもあり、パートナー企業でもある※1神鋼商事の皆さんと食事をしていたとき、「神奈川県の平塚市に田んぼがあって、社の周年行事でコメを作るんです。ちとせの肥料を使いますよ」という話を聞いた。
ノリとバイブスが血管を流れるこの私だ。
「平塚地元ですよ!農作業、手伝い行きましょうか?w」
口が滑った。
「ホルムズ海峡」が「平塚の田んぼ」に関係するって、どういうこと?
そんな決死の田んぼ作業の帰り道、神鋼商事の坂口さんからこんなメッセージが届いた。
「中東情勢のため、化学肥料価格が上がることが必至の中、今回使ったちとせの肥料も面白い立ち位置になるのではと思っています。」
ホルムズ海峡・化学肥料・平塚の田んぼ
一見バラバラなこの3つが、実は繋がっている。風が吹けば桶屋が儲かる、というやつだ。ただし「風→桶屋」よりも、この連鎖はずっとリアルで、私たちの食卓に近いところまで来ている。
まず、現代農業が化学肥料なしには成り立たないという話から始めなければいけない。
現代農業は、20世紀初頭にドイツの化学者ハーバーさんとボッシュさんが開発したアンモニア合成法「ハーバー・ボッシュ法」によって支えられている。天然ガスからアンモニアを合成し、窒素肥料を大量生産するこの技術がなければ、今の食料生産は成り立たなかった。そして、中東・ペルシャ湾岸は世界最大級の天然ガス産地だ。世界の海上肥料流通のおよそ3分の1は、ホルムズ海峡を通って各国に届いている※2。
この話における「風→桶屋」はこうだ。
ホルムズ海峡の緊張→中東からの天然ガス輸送が滞る→窒素肥料の原料が足りなくなる→肥料が高くなる→農家の生産コストが上がる→食べ物が高くなる→私たちの食卓へ。
実際、2026年2月末以降、国際的な尿素肥料の価格は2ヶ月足らずで5割以上上昇した※3。ガソリン高騰はすぐにニュースになるが、肥料不足が食卓に届くのは数ヶ月後だ。静かに、でも確実に、あの海峡の緊張が平塚の田んぼにも届こうとしている。
生きている土と死んでいる土
突然だが、先日NASAのアルテミス計画で宇宙飛行士が月の裏側をぐるりと回って地球に帰還した。今回撮影された月の姿は、かつてないほど鮮明で私たちのロマンをくすぐるが、その表面はどれだけ高解像度で見てもごつごつとした荒野だ。一方、この星の耕作地には、ふかふかとした土が広がっている。この違いは何か。生き物の有無だ。

土の中には、私たちが思うよりはるかに多くの微生物が暮らしている。糸状菌、放線菌、細菌、藻類……目には見えない小さな生き物たちが、土の中で生態系を築いている。
では、化学肥料だけを使い続けるとどうなるか。作物は育つ。でも土壌微生物の生態系は育たない。微生物のエサとなる有機物が供給されないまま化学成分だけが投入されると、土の中の生き物たちの生態系バランスが少しずつ崩れていく。豊かな生態系は次第に偏り、土の力はやがて損なわれていく。千年先も美味しい作物を作り続けるために、土の中の微生物を生かし続けることが必要だと私たちは考えている。
では、有機肥料に切り替えれば解決するのか。実は、そう単純な話でもない。
微生物の本音
有機肥料の代表格が「堆肥」だ。家畜のフンや植物の残渣などを微生物の力で分解・発酵させたもので、土壌改良に良いとされてきた。かつて家畜のフンは野積みにされることも多かったが、地下水への流出による水質汚染が問題となり、法律で堆肥化が義務付けられた※4。こうして地域の畜産農家や工場などで、試行錯誤しながら堆肥化の取り組みが広がっていった。長年の経験と勘が頼りだ。臭わず、扱いやすい完熟堆肥が、農業の世界に広がった感覚だった。
ところが
土壌微生物の観点から見れば、完熟堆肥は分解が進みすぎている。糖やタンパク質だけでなく、微生物の大切なエサである繊維質(セルロース)まで分解されてしまっているのだ。かといって、分解が進んでいない未熟堆肥は作物の根に悪影響を与える有機酸やアンモニアが残っていて、これはこれで問題だ。ちとせの堆肥が「中熟」である理由は、ここにある。臭いの原因となる糖やタンパク質はしっかり分解しつつ、微生物のエサとなる繊維質はあえて残す。
私は農作業が下手で、なぜか堆肥を全身に浴びたが、全く臭くないのだ。本当に臭くない!本当だから、逃げないでってば~
平塚の田んぼの風も、ホルムズ海峡まで届く(かもしれない)
世界のどこかで起きた出来事が、確実にこの田んぼにまで届いている。そしてその逆もまた、きっと成り立つ。ホルムズ海峡の緊張も、肥料価格の高騰も、すぐに変えられるものではない。けれど、土に何を与えるかは、選ぶことができる。海峡から吹いた風が、ここまで届くのなら、ここで起こした小さな変化も、どこかへ届くはずだ。
次は6月に抑草の作業、そして田植えをして、秋には収穫を迎える。今度は、目に見えない土の中の住人たちにも意識を向けながら、足元をちゃんと見てみようと思う。そうすれば、蛙も踏んづけなくて済む。

(本記事は、ちとせグループと神鋼商事の共同プロジェクトの一環として、現在進行中のコメ作りを追ったレポートです。)
注釈について
※1 神鋼商事株式会社は、2023年よりちとせグループへ出資するとともに、バイオエコノミーを推進する産業横断型の共創イニシアチブ「MATSURI」にパートナー企業として参画している。2025年大阪・関西万博日本館では、MATSURIパートナー企業のひとつとして展示にもご協力いただいた。
※2 UNCTAD、ホルムズ海峡の混乱がエネルギーと肥料供給に影響と報告
※3 日経新聞「迫る食料危機の足音 世界の肥料価格5割高、ホルムズ海峡ショック」
※4 農林水産省「家畜排せつ物法とは」
MATSURIとは
https://matsuri-partners.chitose-bio.com
MATSURIとは、“バイオエコノミーを推進する産業横断型の共創イニシアチブ”です。バイオ基点の社会構築を目指し、ちとせグループでは、微細藻類の産業利用をはじめ、AIを活用したバイオものづくり、資源循環、持続可能な農業など、様々な領域で事業を展開してきました。こうした挑戦を一企業で終わらせることなく、確かな産業として根付かせるために生まれた共創の場がMATSURIです。パートナー企業や自治体、教育機関を巻き込み、MATSURIの輪は今日も広がり続けています。その名の通り、人類史に残る「お祭り」として、共に未来をつくる仲間を募集中です。お問い合わせはこちらから。
